「居場所」というのは 単なる物理的な場所の事ではなく「安心してそこに居ていい」と思える場所であり、そこに居る事を認められる場所です。
そこには<よい人間関係>が維持出来る為の「愛する能力」が必要です。
30余年、私は夫から「その場に居てよい」と言われる為の、
<自分を演じきって行く事>を無意識の目標にしておりました。
しかしこれは 「夫の欲望に合わせた自分を生きる」ということなので「自己欲求」とは成り得ず、結果としてその空虚感を埋めるように「自己懲罰」と「自己卑下」が私の心に蔓延り、自己評価を自ら下げてしまい 自分を責めてしまう結果となってしまいました。
本来 夫婦が作る家庭とは一種の職場と考えればよいのですが 安全と秩序は職場以上に重要で、もちろん職務規程や上下関係は原則ありません。代わりに「相手の尊厳の維持に最大の注意を払うという義務」が課せられます。
<アバタもエクボ>・・の相手を 今では「こんなはずでは・・」と 双方が思っているわけですが 夫婦双方が「あなたのここが嫌いなのよ」と言えるようになり、それを相手が修正しようとしたり・しなかったり ガチャガチャと色々言葉が飛び交いながらも相互に補い合う関係というのが望ましいのですが、
私達夫婦の場合は言い合いもするけれど それは 歩み寄る為のものではなく「アルジ」対「奴隷」というような<夫が勝手に秩序のルールをつくり、それを相手が尊守する事を当然>と主張する関係を構築する為の<手段>に過ぎず、「安全と秩序」とは逆の「独裁者」となり「無条件の受容」「絶対受容」を潜在意識で要求し、そこに「母なるもの」の絶対性を求めてしまった。
要するに夫のようなモラルハラスメント・自己愛者は「家」を子宮的環境とし、その中に「自分だけ」の居場所を見出そうとしている事が問題であるため、その支え手である役割者を取り上げ、「赤ちゃん」への過剰なミルク供給を止めさせれば良いわけです。
また、子供は新入社員ではありません
夫婦関係のように親を選ぶ事も出来ない。
だから 「安全」も「秩序」もあり得ないような独裁者の手法の下で暮しながらもその場を「居場所」と思い込もうとする。
しかし、その子供もやがて社会性が育まれるようになると自分の家庭と よその家庭の違いに違和感を覚えるようになり その子なりの「安全と秩序」の感覚を備え それを求めるようになるのです。
また、私達はそれぞれが育った環境下で覚えた人間関係を ある分類した箱のようなもので自然と振り分けていきますが、
(例えば「父親が厳格だった」「母親は表面的には従順」というように・・・)
他人と出会った時々に 自分が知り得る限りの人間関係の「分類した箱」にポコポコと入れてしまい、相手は無条件で「ある枠」に置かれてしまう。
そして その「枠」が、夫婦双方のプライドに 傷をつけたことで闘いが始まるのですが 「枠」に入れてしまった当事者には 全く理解出来ないために いくら言い合いに成っても それを受け付けようともしない・ということになる。
結局 ≪自分の知らない枠もある事を理解し受容する事≫でしか 他人同士の繋がりを維持することは困難なのかもしれないし、夫婦ならば尚更 相互に認め合う事からでしか 家庭を守り育てる事は難しいのかもしれない。