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ナント;夫は「回避依存症」の独裁者・搾取者・ナルシスト・脱走者。そして私は共依存だった。
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バランス

掲載日:2007年8月3日

男性と女性

男性の潜在意識が恐れる事は 失敗を責められること。
特に一番身近な相手に失敗を責められた経験がある場合 その思いは尚更強くなるように思う。


男性の悩みの根っこにあるものは
「私は誰の役にも立っていない」という自分の能力に対する自信のなさ


女性の悩みの根っこにあるものは
「私は愛されていない・大切にされていない」という愛情欠乏であろう。

受け取ることの出来ない女性は「世話をやく事」つまり「与える事」で男性をコントロールしようとし
与える事の出来ない男性は
「この人は私がいないとダメになる」と思わせて女性をコントロールしようとする...

しかし このようなケースの ほとんどは破局を迎えます

結果として 女性が与えれば与えるほど男性は無力になって行くし、
自分を無力にした女性を恨むようになり いずれかは相互につぶし合うこととなる



自立とは「与える事」と「受け取ること」のバランスがうまく取れている状態

相互依存とは
与える事も受け取ることも濃厚な2人の関係・・・


心理学 一部 引用

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色んな人格

掲載日:2007年8月2日

紙一重

同じ時間努力をしても結果が望まぬ方向に流れてしまう人がいる
そこで焦りが出て来るのだが 育った環境が結果主義だった場合 過ぎて行く時間が無駄に思えて焦らせてしまう
行き過ぎた業績思考が 時として家庭に持ち込まれ 業績を挙げた人だけが
その家族の集団として認める という傾向にある
このような志向は家庭の本来のあり方ではないのだが それにも拘らず親は子供に所属感を植えつけようとし子供は劣等感に悩まされる事となる



また 一つの流れを無視してでも 計画をキッチリ立て その計画通りに事を運ばないと気が済まない人がいる。
その人にとって重要な事は「無駄なく・そつなく・怠り無く」
この3原則を基本に日々過ごしている

その結果として起こり得るであろう他者との関わりにおいては 他人も自分と同じようにコントロールしようと計る。
しかし それには当然無理がある
その無理こそが「不安」の表れ。
「我こそは几帳面」と思われている方は「不安」を抑圧している自分に気付く事であり
<不安の反動形成が極端な几帳面である>という事を理解する必要がある

アメリカの心理学者デビィッド・シーベリーは「完全な成功を望む者は完璧な愚か者だ」とも記している。

ゆとりある几帳面とは 一体 どんなものだろうか・・

社会生活の中での家庭の位置づけ・・

掲載日:2007年8月2日

家長・家族・・ この奇妙な関係

心理学を学びながら分かるのは 「自分」という このどうしようもなく手の掛かる存在でした。
私は夫が大好きでした。勿論 それは夫の一部分だったのですが、私はこの夫の一部分の為に自分を賭けようと心に決め全身全霊 真心を尽くすことを惜しみませんでした。
「貴女の為に頑張ります」と・・これが「真面目」な人の親しみ方だと信じていたからです。
ところが夫はと言うと
「そんなに好きならこれをしてくれてもいいだろう」「あれもやってくれ」
「してくれないってことは じゃぁー私を好きじゃないんだ」と要求し続ける
その言葉に「・・・」の私と それと同時にその要求に応えている自分がいた

その点 親しくなる人とはお互いに無理がない・・・
「これをして」
「嫌よ」
「何でしてくれない?」
「貴方だってこの間してくれなかったでしょ」という風に
さりげない会話がコミュニケーションとしてキャッチボールできるようになる。


結局 私は脅迫概念に囚われながら夫の要求に応え続けることとなり、最後は疲労困憊でギブアウトしてしまった
私がこれに気付いたのは友達との付き合いと夫との付き合いの差だった
私はいつでも友達と気兼ねなく話し 楽しく会話が出来た
相互にいいたいことを言い合っても それでもおつりが来るほどの心の栄養剤になっていた。

本来会話とはコミニュケーションの手段であり「信頼関係」は大前提のもの

しかし、夫との生活では、所作一つ・何から何までアンテナを張り巡らし、それこそ戦闘態勢を取りながら夫と相対していたように思う

夫との会話は「公式的」である事がいつの間にか定着し、こちら側は夫に隙を作らないことが前提になり、結果として母子共に夫に無関心になって行った

夫は「議論」が大好きだった
何かにつけ「家族会議」と称しては私達を5時間6時間・・ 
時には朝の3時過ぎまで付き合わせた事もあった

しかし、その会議がどうなったかと言うと
「私の主義主張を認めろ」
「私はこれからこうするから従え」だけ。
その公式を家族に与える為だけに延々 寝る間も惜しんで喋り続け、
こちら側の意見は一切無視し「じゃぁ そういう事だから。もう遅いから寝よう」
と充分満足して サッサと寝室へ行ってしまう
これが自己愛者の<理想的な家庭>である

これは「本当の自分を理解して欲しい」の欲求から起きる会話ではなく「点」の意識。

「自己意思の押し付け」の為に画策した会議だからこそ「公式的」になっているもので
優しさや豊かさを育む基本がないのが特徴だった。

アルジとしての強さ・権力を議論の場で示す
それは強いフリをした為に 結果として絆を壊す元となってしまった



何がいけなかったか
私達夫婦に欠けていたもの・・
「無理をしないほうが愛される」という極基本的な<自分を大切にする心>が欠落していた 
それは 紛れもなく幼少期の親子関係の歪みから来る愛情飢餓感だったと思う。


結局 触れ合いの場を知らずに育った二人が作り上げたものは家庭に会社と同じ機能を求め「結果第一主義」となった。
しかし、現在のこの国の家庭環境を考えると このような機能不全家族はこれからも増え続けるのかもしれない。

モラハラ・人格障害 「反動形成」

掲載日:2007年8月1日
表裏一体

同一視の逆で、親の生き方と全く逆の生き方をしているような人も多いのではないでしょうか。
これがいわゆる「反動形成」です。
何かにつけ(理由もなく)反抗する、ってやつですかね。

コンプレックスには相反するコンプレックスがペアで存在するようで、これがコンプレックスの特徴でもあります。
劣等感の裏には、優越感があって、この落差により余計に劣等感を感じたりとか、
あるいは、人を避けるというコンプレックスの裏には、人に認められたいとか、人から愛されたい、というコンプレックスが見受けられたりとか、そういう事もありそうです。

同一視の場合、対象と自分を同一とみなし扱う事で問題(あるいは、コンプレックス)を意識する事を避け、自我の安定を守ろうとするわけですが、
反動形成の場合、抑圧した対象と反対の態度や行動をとる事で、本来の問題(あるいは、コンプレックス)を意識する事を避け、自我の安定を守ろうとします。
そして、このような場合、対象に反発し、反対の態度や行動をとり続けるわけですが、
問題を意識していないのですから、「何でも反発する」とか「何でも反対の事をする」といった風に、問題(あるいは、コンプレックス)自体には触れぬまま、主に他のところで反発する事になりがちです。

しかし、これがすべて悪いかというとそうでもなくて、そうしてでも自我を守っているという面もあります。ここには、ちゃんと守護者の一面があります。
ただ、それだけでは成り立たなくなるのも度々なわけで、
そうした時には、痛みを伴なってでも問題を意識し、修正しなければならない場合もあります。
ここにも二面性があって、守ってくれる面と、それだけでは成り立たなくなる面、両面あります。
ですから、一概に、良い悪いとは言えません。


しかしこの反動形成、うまく働いているのをあまり見たことがありません。勝手気ままな親に幻滅して、ガチガチの人生を送って苦しんでいる人もいるし、躾(しつけ)の厳しい親に育てられた人が全くの放任主義で常識のない子供を育てることもあります。
バランスというのは難しいですね。
(そして、その根底には、「意識できない」という問題があったりします)

この反動形成も、同一視と同様に、コンプレックスに支配されている状態だととれるのではないでしょうか。
ただ、同一視と違って、同じカテゴリーにおさまるのではなく、むしろ逆の方向に逃げることで、その影響を色濃く受けているのだと思います。
一見、反逆しているようで、実は支配されていたりします。
まあ、問題から逃げているのですから、解決したとは、とても言えません。
(対決しているようで、実は反対方向に逃げている…そういう捉え方もできるかもしれません)

とはいえ、反抗でもしなければ独立(自立)できない、って事もありますから、
「反動形成」を経て、どこに行くか? どうなっていくか? どこに落としどころを見つけるか?
――そういった事の方が、大切かもしれません。

反動形成自体が悪い、という事だけはないようです。

ユング心理学者ページより転写

投影同一視

掲載日:2007年8月1日

表裏一体

これは、コンプレックスの対象と自分を無意識のうちに混同することにより、安定しようとする働きです。

アルコール中毒の人の子供がアルコール中毒に陥るケースが多いというのも、この作用によるものかもしれません。
もっと身近な例だと、親の受け入れがたい欠点を子供が知らず知らずのうちに継承している、というのも、そうかもしれません。

このような作用は、親の欠点や、先祖代々の欠点と『向き合わない』あるいは『対決しない』場合に起こるのではないでしょうか。(あるいは、『意識できない』)
実際、ある個人に症状が出る場合、家族や先祖代々の問題を明確化するために、ある個人が重荷を背負わされているのでは? ――と思えるような場合も多いです。
あるいは、本当は親を非難したいのだけれど、それができず、コンプレックスに屈服するかたちで、知らず知らずのうちに、親と同じような生き方をしている場合もあるでしょう。

例えば、親の中に、自分が受けきれないようなものを見出したとしましょう。あるいは、そういう経験をしたとしましょう。
それは本来(親を)否定するような事だったり、嫌ったり、怒ったり、批判したりするようなものかもしれません。
しかし、それが「受けきれない」ような内容であった場合、それは無意識下に追いやられます。
なぜなら、それを真正面から受け止めてしまうと、潰れてしまうからです。幼子にそれを受け止めろというのも、酷な話です。
で、それは無意識下にありますから、当然、意識する事ができません。

しかし、意識はできませんが、確かに無意識下に存在するし、生きてくる中でどんどん蓄積して大きくなりますから、やがて無視できなくなります。無意識下にありながら、意識の領域にまで影響を与えるようになります。

そこで何とか自我を安定させようというメカニズムが働くわけですが、「同一視」の場合、自分と対象を同一とみなし扱う事になります――この場合、自分と親を同一とみなす事で、自我の安定を図ります。
結果、そういう働きが、親と同じ態度や行動として表に現れるわけです。

本来、「嫌ったり」「抗議したり」「批判したり」するような対象と同じように振舞う事によって、その内容を意識する事を避け、自分を守ろうとするわけです。


まあ、親と同一視するようなことは、程度の差こそあれ、誰しもあるとは思いますが、もっと高尚なものと同一視し、これが過ぎると、自分のことを「神」だと名乗ったり、「世界の支配者」だ、「救世主」だと言い出したりすることもあるようです。流石にこれは、危険かもしれません。

判断に当たっては、ある種、社会常識というものも必要だと思います。

常識という基本姿勢があって、そこに例外が発生するのです。

ユング心理学者ページより転写



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