表裏一体
これは 自分の中にある意識できない嫌いな面を、相手の中に見出し、徹底的に嫌ってしまうような事です。自分が否定しているような事は、案外自分では気づかないもので、
そのお陰で、自我の安定が守られたりします。何かを抑圧することで、自分を守るわけです
その内、溜まりに溜まったものは、意識にまで影響を与えるようになり、それを否定しようという力も強くなります。強く抑えつけざるを得ないようになります。
そうしてでも、安定を守ろうというメカニズムが自然に(=無意識的に)働くわけです。
という事は、自分が頑なに否定しているようなものは、些細なものでも赦せなくなるわけで、相手の中に見出した、自分が抑圧してきたようなものも、当然、赦せません。
ここで不思議なことに、自分の姿は見えませんが、相手の姿は容易に見えるので、それを徹底的に否定することになります。
自分の中で、影の要素を、何が何でも抑圧するように、自分の影を見出した(あるいは、映し出した)対象も、何が何でも否定しようとします。
自分の中の影なる部分を認識するのは耐えられないので、意識しないように徹底的に抑圧するんですが、同じように、自分の影と同じものを持つ相手も、徹底的に否定しようとします。
そりゃもう、少しぐらい道理が歪んでも、お構いなしなくらいに、否定したり攻撃します。
ここで厄介なのが、「意識できない」事です。
自分の事として意識できないから、それを止める事ができません。
第三者にとっては些細なことでも、それを赦すことは、自我の安定を脅かすことになりますから、赦すことができません。
相手は相手、自分は自分と割り切れればいいようなもんですが、自分のことを相手の中に見出すわけですから、話がややこしくなります。
自分は、自分の中の影なる部分を認める事ができない、
↓
抑圧して、安定を図る、
↓
抑圧しているから、それを自分では意識できない、
↓
「抑圧→肥大化」のシステムで、無意識下で抑圧したものは大きくなる、
見えない領域で、それが蓄積される、
↓
より強く、否定しなければならなくなる、
(抑えつける対象がどんどん大きくなるので、抑えつける力も、当然、強くしないといけなくなる)
↓
相手の中に、自分が否定しているものを見出す、
↓
自分の中でそれを強く否定しなければならないから相手に映る自分の影も赦せない、
しかも、自分のことは意識できないから、それを単に相手のことだと認識し、一方的に、相手が赦せなくなり、徹底的に否定する
で、自分自身で自分の影を認識することが赦せないんですね。自分の影を認めてしまうのが、赦せないんです。
だから、自分の影を臭わせるものは、何でも赦せなくなるわけです。
どんな些細なことでも、認めるわけにはいかなくなったりします。
だから、自分の影と重なる部分を有する、そんな相手が赦せないんです。
自分のことを相手の中に見出したり、自分のことを相手のこととして認識することは、誰でもあると思います。
それに、そうする事で、自分の心の安定を、守っているわけです。
投影ですが、他の言い方をすると、「棚に上げる」っていう言葉があります。
「自分のことを棚にあげて―― 」ってやつです。
そして、自分の態度を改めないわけですから、エンドレスに続きます。
むしろ、エスカレートするでしょうか。
そして、ここでも問題となるのが、「意識できない」ということ。
意識しないことで自分を守る代わりに、意識できないので、修正が利きません。
(ここでも「二面性」があります)
相手が赦せなくて、徹底的に否定しているようで、実は、自分のことを無意識の内に(あるいは、自分の中にある無意識的なものを)徹底的に否定していたりします。
(自分を否定するのは耐えられないので、投影した相手を否定することで、発生した力を処理するんですね。まあ、自分といっても、無意識的な自分、無意識内にある影の自分、何か理由があってまだ意識できていない自分、ですが)
ホント厄介です、この投影という機能・・
自分の影を見るのは難儀なことです。
影というだけあって、振り返ったり、何かに映し出したり、そうしないと、なかなか見ることができません。
厄介な投影という機能、これにもいろんな見方があり、付き合い方があります。
それは我々と共にあり、我々を見つめています。
そして、それをどう生かす(活かす)かは、自分次第です。
良い面、悪い面、二面性があるし、善悪を超えた、意味があったりしますから
ユング心理学者より転写
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