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ナント;夫は「回避依存症」の独裁者・搾取者・ナルシスト・脱走者。そして私は共依存だった。
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表裏一体

同一視の逆で、親の生き方と全く逆の生き方をしているような人も多いのではないでしょうか。
これがいわゆる「反動形成」です。
何かにつけ(理由もなく)反抗する、ってやつですかね。

コンプレックスには相反するコンプレックスがペアで存在するようで、これがコンプレックスの特徴でもあります。
劣等感の裏には、優越感があって、この落差により余計に劣等感を感じたりとか、
あるいは、人を避けるというコンプレックスの裏には、人に認められたいとか、人から愛されたい、というコンプレックスが見受けられたりとか、そういう事もありそうです。

同一視の場合、対象と自分を同一とみなし扱う事で問題(あるいは、コンプレックス)を意識する事を避け、自我の安定を守ろうとするわけですが、
反動形成の場合、抑圧した対象と反対の態度や行動をとる事で、本来の問題(あるいは、コンプレックス)を意識する事を避け、自我の安定を守ろうとします。
そして、このような場合、対象に反発し、反対の態度や行動をとり続けるわけですが、
問題を意識していないのですから、「何でも反発する」とか「何でも反対の事をする」といった風に、問題(あるいは、コンプレックス)自体には触れぬまま、主に他のところで反発する事になりがちです。

しかし、これがすべて悪いかというとそうでもなくて、そうしてでも自我を守っているという面もあります。ここには、ちゃんと守護者の一面があります。
ただ、それだけでは成り立たなくなるのも度々なわけで、
そうした時には、痛みを伴なってでも問題を意識し、修正しなければならない場合もあります。
ここにも二面性があって、守ってくれる面と、それだけでは成り立たなくなる面、両面あります。
ですから、一概に、良い悪いとは言えません。


しかしこの反動形成、うまく働いているのをあまり見たことがありません。勝手気ままな親に幻滅して、ガチガチの人生を送って苦しんでいる人もいるし、躾(しつけ)の厳しい親に育てられた人が全くの放任主義で常識のない子供を育てることもあります。
バランスというのは難しいですね。
(そして、その根底には、「意識できない」という問題があったりします)

この反動形成も、同一視と同様に、コンプレックスに支配されている状態だととれるのではないでしょうか。
ただ、同一視と違って、同じカテゴリーにおさまるのではなく、むしろ逆の方向に逃げることで、その影響を色濃く受けているのだと思います。
一見、反逆しているようで、実は支配されていたりします。
まあ、問題から逃げているのですから、解決したとは、とても言えません。
(対決しているようで、実は反対方向に逃げている…そういう捉え方もできるかもしれません)

とはいえ、反抗でもしなければ独立(自立)できない、って事もありますから、
「反動形成」を経て、どこに行くか? どうなっていくか? どこに落としどころを見つけるか?
――そういった事の方が、大切かもしれません。

反動形成自体が悪い、という事だけはないようです。

ユング心理学者ページより転写

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表裏一体

これは、コンプレックスの対象と自分を無意識のうちに混同することにより、安定しようとする働きです。

アルコール中毒の人の子供がアルコール中毒に陥るケースが多いというのも、この作用によるものかもしれません。
もっと身近な例だと、親の受け入れがたい欠点を子供が知らず知らずのうちに継承している、というのも、そうかもしれません。

このような作用は、親の欠点や、先祖代々の欠点と『向き合わない』あるいは『対決しない』場合に起こるのではないでしょうか。(あるいは、『意識できない』)
実際、ある個人に症状が出る場合、家族や先祖代々の問題を明確化するために、ある個人が重荷を背負わされているのでは? ――と思えるような場合も多いです。
あるいは、本当は親を非難したいのだけれど、それができず、コンプレックスに屈服するかたちで、知らず知らずのうちに、親と同じような生き方をしている場合もあるでしょう。

例えば、親の中に、自分が受けきれないようなものを見出したとしましょう。あるいは、そういう経験をしたとしましょう。
それは本来(親を)否定するような事だったり、嫌ったり、怒ったり、批判したりするようなものかもしれません。
しかし、それが「受けきれない」ような内容であった場合、それは無意識下に追いやられます。
なぜなら、それを真正面から受け止めてしまうと、潰れてしまうからです。幼子にそれを受け止めろというのも、酷な話です。
で、それは無意識下にありますから、当然、意識する事ができません。

しかし、意識はできませんが、確かに無意識下に存在するし、生きてくる中でどんどん蓄積して大きくなりますから、やがて無視できなくなります。無意識下にありながら、意識の領域にまで影響を与えるようになります。

そこで何とか自我を安定させようというメカニズムが働くわけですが、「同一視」の場合、自分と対象を同一とみなし扱う事になります――この場合、自分と親を同一とみなす事で、自我の安定を図ります。
結果、そういう働きが、親と同じ態度や行動として表に現れるわけです。

本来、「嫌ったり」「抗議したり」「批判したり」するような対象と同じように振舞う事によって、その内容を意識する事を避け、自分を守ろうとするわけです。


まあ、親と同一視するようなことは、程度の差こそあれ、誰しもあるとは思いますが、もっと高尚なものと同一視し、これが過ぎると、自分のことを「神」だと名乗ったり、「世界の支配者」だ、「救世主」だと言い出したりすることもあるようです。流石にこれは、危険かもしれません。

判断に当たっては、ある種、社会常識というものも必要だと思います。

常識という基本姿勢があって、そこに例外が発生するのです。

ユング心理学者ページより転写

表裏一体

これは 自分の中にある意識できない嫌いな面を、相手の中に見出し、徹底的に嫌ってしまうような事です。自分が否定しているような事は、案外自分では気づかないもので、
そのお陰で、自我の安定が守られたりします。何かを抑圧することで、自分を守るわけです

その内、溜まりに溜まったものは、意識にまで影響を与えるようになり、それを否定しようという力も強くなります。強く抑えつけざるを得ないようになります。
そうしてでも、安定を守ろうというメカニズムが自然に(=無意識的に)働くわけです。

という事は、自分が頑なに否定しているようなものは、些細なものでも赦せなくなるわけで、相手の中に見出した、自分が抑圧してきたようなものも、当然、赦せません。

ここで不思議なことに、自分の姿は見えませんが、相手の姿は容易に見えるので、それを徹底的に否定することになります。

自分の中で、影の要素を、何が何でも抑圧するように、自分の影を見出した(あるいは、映し出した)対象も、何が何でも否定しようとします。

自分の中の影なる部分を認識するのは耐えられないので、意識しないように徹底的に抑圧するんですが、同じように、自分の影と同じものを持つ相手も、徹底的に否定しようとします。

そりゃもう、少しぐらい道理が歪んでも、お構いなしなくらいに、否定したり攻撃します。

ここで厄介なのが、「意識できない」事です。

自分の事として意識できないから、それを止める事ができません。

第三者にとっては些細なことでも、それを赦すことは、自我の安定を脅かすことになりますから、赦すことができません。
相手は相手、自分は自分と割り切れればいいようなもんですが、自分のことを相手の中に見出すわけですから、話がややこしくなります。


自分は、自分の中の影なる部分を認める事ができない、
 ↓
抑圧して、安定を図る、
 ↓
抑圧しているから、それを自分では意識できない、
 ↓
「抑圧→肥大化」のシステムで、無意識下で抑圧したものは大きくなる、
見えない領域で、それが蓄積される、
 ↓
より強く、否定しなければならなくなる、
(抑えつける対象がどんどん大きくなるので、抑えつける力も、当然、強くしないといけなくなる)
 ↓
相手の中に、自分が否定しているものを見出す、
 ↓
自分の中でそれを強く否定しなければならないから相手に映る自分の影も赦せない、
しかも、自分のことは意識できないから、それを単に相手のことだと認識し、一方的に、相手が赦せなくなり、徹底的に否定する

で、自分自身で自分の影を認識することが赦せないんですね。自分の影を認めてしまうのが、赦せないんです。
だから、自分の影を臭わせるものは、何でも赦せなくなるわけです。
どんな些細なことでも、認めるわけにはいかなくなったりします。
だから、自分の影と重なる部分を有する、そんな相手が赦せないんです。

自分のことを相手の中に見出したり、自分のことを相手のこととして認識することは、誰でもあると思います。
それに、そうする事で、自分の心の安定を、守っているわけです。

投影ですが、他の言い方をすると、「棚に上げる」っていう言葉があります。

「自分のことを棚にあげて―― 」ってやつです。

そして、自分の態度を改めないわけですから、エンドレスに続きます。
むしろ、エスカレートするでしょうか。

そして、ここでも問題となるのが、「意識できない」ということ。

意識しないことで自分を守る代わりに、意識できないので、修正が利きません。
(ここでも「二面性」があります)

相手が赦せなくて、徹底的に否定しているようで、実は、自分のことを無意識の内に(あるいは、自分の中にある無意識的なものを)徹底的に否定していたりします。
(自分を否定するのは耐えられないので、投影した相手を否定することで、発生した力を処理するんですね。まあ、自分といっても、無意識的な自分、無意識内にある影の自分、何か理由があってまだ意識できていない自分、ですが)

ホント厄介です、この投影という機能・・

自分の影を見るのは難儀なことです。
影というだけあって、振り返ったり、何かに映し出したり、そうしないと、なかなか見ることができません。

厄介な投影という機能、これにもいろんな見方があり、付き合い方があります。
それは我々と共にあり、我々を見つめています。
そして、それをどう生かす(活かす)かは、自分次第です。

良い面、悪い面、二面性があるし、善悪を超えた、意味があったりしますから


ユング心理学者より転写

思えば 出会った頃の夫にも 既に「自己愛的ナルシシズム」は現れていた。

普段の夫は対外的には「山の手のお坊ちゃま」。
温和で それでいて どこか凛々しく。
いつも私をエスコートしてくれ 絶えず私へのプレゼントを忘れない人だった。

父親の愛情に飢えていた私は その優しさを、「父性」と「異性」両方の愛情と受け止め日々、充実していた。

結局 後にそれが このタイプの持つ二面性だった事に気付かされる事となるのだが・・

私も「AC」であった為に そこに気付くのに この年月かかってしまった・・・

私にとって唯一よかったことは 夫の親族の異常性に順応せず、果敢に向かって行った事だったろう
勿論 それには多くの傷も負った
表面的な部分は勿論、心の傷となる「人格否定」は強烈なものだった;

「貴女を女中と思ってる」から始まった言葉のDVは 正に留まることなく30余年続いた。

夫のその異常性は はっきりと表面化している
<自分が・したい> と思ったことは 何が何でも成し遂げようと働きかける
それが どんなに無理であっても それこそ「無理押し・ごり押し」とでも言うほど
強引に 何が何でも思いを遂げる為に画策する

その思いを遂げる為に夫はあらゆる「大義名分」を持ち出し、自分の思いを遂げる為に
精一杯の大風呂敷を広げ ありとあらゆる理由付けを行い、周りを説得する。
周りも 夫の大義名分の裏に隠された思い等、知る由もないので そのままを受け止める。
そうなれば 夫の画策は見事に成就するし、夫にとっては「自己」を充たすこれ以上の幸福感は無いのである。
「旅行」「コンサート」「釣り」etc
しかし、このどれをとっても「楽しい」の追求でしかなく、<努力して勝ち得たもの>でも <信頼により得たもの>でもない「点」の行為である為、必ず最後には「確認」が欲しくなる
その確認欲しさに今度は「貴女の為に」という<大義名分>を持ち出す。

「妻の為に 毎年海外旅行に連れて行ってあげるような旦那なんてどこにもいないよ!感謝して欲しいね」と・・・

しかし、けして 私が行きたかった訳でも・私が夫に願い出た訳でもない。
それ故「なぜ?」と疑問を投げかける事となるのだが 夫はそれを許さない。
結局 夫は 私を「道具」として利用しただけ
だから 私が「行かない」と言うと大騒ぎだし、「自分勝手だ!」と私を罵倒する。

結局 自分が「・・したい」も「・・してやった」と解釈するし
自分の思考と同じ考えを妻が持つのが当然と考える

それ故「妻と一緒に・・」ではなく「妻の為に・・」と摩り替えるし、
それに感謝するのは妻として当然だと思い込む。
夫は自らの要求を こちら側が甘んじて受け入れている間は上機嫌だった。
なぜなら 私は夫の「都合のよい道具」なのだから。

結局 人格障害者が人と拘ろうとする時、その相手に絡むのは この大義名分を受け入れさせなければ 「自己肯定感」が味わえないからである

だから、毎日が繋がらず、一つ一つがバラバラであり、情緒不安に陥る。

それ故、他者と拘る時、それが最も顕著に表れる。

対外的に温厚な顔で接する夫は 精一杯<外面>で対する為に 神経を摩り減らし
ボロボロ状態で帰って来る
その状態を 一夜で克服する為に必要なものは「俺様」のみ。

家族全員に「下部」を要求する。
特に妻には無条件に求める。

しかし、さすがの私もついに耐えられず(骨折の後遺症もあり) 数年前から家庭内別居を選択。
しかし夫には妻の気持ちは理解しない。
結局「妻が城主を邪険に扱った」の怒りを押し殺し、その思いを恨みへと転嫁してしまった。

元々女遊びは夫にとって日常茶飯事。 
まして この現実を受け入れる事など皆無だったのだろう
この時とばかり 堂々 毎週ソープへ通い、出会い系で遊び・・更に不倫。
その上 息子達を誘って 自分の女遊びを自慢し、妻を蔑み つまみにしていたと言う;

その事が発端で 我慢 し通した私もついに堪忍袋の尾が切れ
離婚問題が泥沼化することとなるのだが、夫には「自己責任」という部分で欠陥がある為、一切を妻側の問題に摩り替えてしまった 
これが 後に夫の「投影性同一視」に繋がって行くこととなる。

企業とは 人を止める業

今思うと 夫もある意味での被害者だったろうと・
「リストラ」というサラリーマンにとって死刑台にも似た場が、ある日突然出現した。
更に「男女雇用機会均等法」も制定され、「パワハラ」「セクハラ」等、夫達年代にとっては「学歴社会」の恩恵だけでは食べて行けない息苦しい時代が到来したようなものだったろう
企業も時代の流れに乗り「早期退職」の名の下に 公明正大に「首切り」を唱えた。

夫達の年代にとって それは正に「自分の思考変革の時代」になったのだろう
そしていよいよ 日本企業の「終身雇用」は幻と化すようにも見えた・・

そんな中 夫の父は公務員、「先生!」と呼ばれるお方
そして紛れもない「自己愛者」であった
どんなにあろうとも 自分の意見以外 一切を無視。
それで80まで生きて来れた事自体 素晴らしいと思うが、
同時に「この父にして この夫有り」 なのかも知れない・・と・・

そして 私も同様、母親が夫の父同様「自己愛者」だった
男女で違っていた為に 私は「奉仕」を常とする生き方を無言のうちに強要され、
結果としてACになっていたし、夫は夫で「男は」の教育の元、どのような働きかけにも動じない強靭な意固地の夫が成人する時点で出来上がっていた事になる

お互い どこで引き合うのか 分からないが どうやらお互いの匂いで引き合う・とも言われているらしい・・

これが「連鎖」の恐さかもしれないが・・

夫には周期がある

*開放期
*緊張形成期
*暴力期

この一連の流れがあったから「調停」への道のりも・理解し得ない行動も・
今なら理解できるのだが・・・

<なぜ、夫自身 自分がおかしいと分かっているのに そこを受け止めないのだろう>
<なぜ、自分の存在価値を認めるために 一番自分に影響を受けた他者を全否定しなければならないのだろう>
<なぜ、他者とコミュニケーションするのにガードが必要なんだろう>
<なぜ、自己実現の為に 家族を切り捨てられるのだろう>

こうやって考えていくうちに 人格障害者の心理分析が始まったが いつの間にか 悩める人達と共に より良い生き方をサポートする立場に立っていた



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